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大阪地方裁判所 昭和60年(ワ)9984号 判決 1988年8月26日

原告

烏ノ福江

右訴訟代理人弁護士

木下準一

右同

井関和雄

被告

財団法人日本生命済生会

右代表者理事

弘世現

右訴訟代理人弁護士

竹村仁

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和六〇年一二月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1(当事者)

(一)  原告は、亡烏ノ喜代乃(以下「喜代乃」という。)の長女であり、唯一の相続人である。

(二)  被告は、肩書地において、日生病院(以下「被告病院」という。)を経営する財団法人であり、訴外石川博道医師(整形外科、以下「石川」という。)、同中川公彦医師(外科、以下「中川」という。)らを雇用して診療にあたらせている。

2 (死亡に至る経緯)

(一)  喜代乃は、昭和五九年八月二〇日、被告病院で初診を受け、同年九月三日から、胃病変の治療のため被告との間に医療契約を締結して被告病院に入院し、同年同月一一日には、胃癌の疑いにより、中川により胃の全摘出手術を受けた。

(二)  右手術後、喜代乃は順調に回復し、投薬治療は受けていたものの、直ちに手術を要するような癌の転移もなく、食欲、体調等の全身状態も安定し、退院許可もおり、同年一二月二八日には退院の予定になっていた。

(三)  ところが、右退院を前に、喜代乃が中川に膝の痛みを訴えたところ、中川から石川の下に廻付され、同年一二月二八日、石川により腰骨付近に、リドカインを成分とするキシロカイン薬による「神経ブロック」注射の施行を受けたところ、右注射施行の二時間後、急に喜代乃は腰の脱力感及び腰部付近の激しい痛みを訴え、また同日夕から翌二九日にかけて、視力が弱くなり目の前が黒くなってゆく、あるいは手足の麻痺を訴え、翌三〇日には目が見えなくなり、不眠、食欲不振が続き、さらに同六〇年一月一〇日ころには、幻覚症状を訴え、あたかも精神錯乱のような症状を呈し、さらには聴覚の異常が現れ、同月二七日以降、意識不明のまま、同月三〇日、死亡した。

(四)  右死亡は、リドカインの副作用たる神経系、循環器系の合併症によるものである。

3 (被告の責任)

石川及び中川には、喜代乃の診療に関して次のような過失があり、その結果喜代乃を死亡させたものであるから、被告は同人らの使用者として民法七一五条により喜代乃の死亡によって生じた損害を賠償する責任があるとともに、被告は、喜代乃との間に診療契約を締結し、石川、中川を履行補助者として喜代乃の診療をなしたが、喜代乃は同人らの不適切な診療行為の結果死亡したものであるから、被告は債務不履行による損害賠償責任を追う。

(主位的主張)

(一)(神経ブロック注射による症状の発生と死亡)

(1) 局所麻酔剤であるリドカインは循環器、中枢神経系の副作用として、血圧低下、脈拍の異常、振戦、痙攣、眠気、不安、興奮、霧視、めまい等の症状を伴うことがあるといわれており、これらを成分とする神経ブロック注射の施行にあたっては、その適応と要約を十分に検討し、量、注入速度、注射部位等を考慮し、施行後も副作用の出現に備えて経過観察をしなければならない。

(2) しかるに、石川は、喜代乃の膝の痛みの訴えに対し、その原因、症状等何ら検討する事無く、量、注入速度等を考慮することもなく安易に右ブロック注射を施行し、右注射により、喜代乃にリドカインの副作用による前記症状が発生した後も、石川及び中川は、右副作用によるものであることに思い至らず、何らの抑制措置をもとらなかった。

(3) このため、喜代乃は、昭和五九年一二月二八日の副作用発生から同六〇年一月三〇日死亡までの間、副作用による不眠、不安等の精神的苦痛を受けた。

(予備的主張)

仮に、喜代乃の死亡が癌の転移によるものであるとしても、

(二)(癌転移発見の遅延による死亡)

(1) 昭和五九年九月一一日に、喜代乃が中川により胃の手術を受けた際、同女の胃癌は部位として、胃の入口及び中央部分を侵し、進行程度としても、S漿膜面浸潤がS2に進行し、腹膜転移はP1に進行し、リンパ節転移はN2に進行し、stage進行段階としては、第一段階から第四段階まで分類される内の第四段階まで進行しており、特に、この種の胃癌類型はリンパ系の転移の恐れが大きい類型であった。

(2) また、喜代乃は、手術後、極端に痩せ始め、回復期間と思われる約一か月を経過した昭和五九年一〇月中旬以降も体重減少が著しく、食欲不振を訴えるなど、浸潤型癌の悪液質の全身、全臓器に対する広がりを示す症状を呈していた。

(3) したがって、かような場合、被告としては、喜代乃の右症状の原因を究明するとともに、当然癌の転移を予想し、それに応じた適切な医療措置を講ずべき医療契約上の注意義務があった。

(4) そして、もし、喜代乃が前記症状を訴えはじめた昭和五九年一〇月中旬ころから、中川が癌の転移を予想し、より積極的な栄養管理などの措置を講じていたならば、局所症状に対する化学療法の適用を可能にし、喜代乃の死の転帰を回避することができたものである。

(5) しかるに、中川は、癌の転移をまったく認識する事無く、かえって、腹部所見他からほぼ順調に経過していたとの認識をもち、昭和五九年一二月二八日の退院許可まで出しており、喜代乃から癌に対する効果的な治療を受ける機会を完全に奪い去った。

(6) このため、喜代乃は、癌の全身転移による悪液質により、死亡するに至った。

(三)(延命措置の懈怠)

仮に、喜代乃の救命が不可能であったとしても、

(1) 昭和五九年当時、被告病院程度の総合病院にあっては、stageⅣ型胃癌手術例でも、免疫療法、化学療法等により、二年間に限れば延命は可能であり、遅くとも、昭和五九年一二月二八日ころまでに、被告が癌の転移に気づき、ただちに化学療法、免疫療法をとっていれば、喜代乃は数か月は延命でき、また、より少ない痛みと共に死を迎えられたものである。

(2) しかるに、中川は、昭和六〇年一月二五日ころまで、癌の転移に全く思い至らず、昭和五九年一二月二八日以降の喜代乃の前記症状の発生に対しても、鎮静剤を投与するのみで、何ら癌に対する化学療法等を行なっていない。

(3) このため、昭和六〇年一月三〇日に、喜代乃は癌の全身転移による悪液質により死亡するに至った。

4(損害)

慰謝料  金一〇〇〇万円

喜代乃の受けた不眠、不安、精神錯乱、及び視力喪失、聴覚異常、運動麻痺、昏睡等の精神的苦痛(前記3の(一))、又は癌によりその生命を奪われたこと(前記3の(二))、あるいは延命の利益の侵害(前記3の(三))による精神的苦痛は、金銭に評価すれば金一〇〇〇万円は下らない。

5(看護婦による点滴ビンの落下による損害)

(一)  また、喜代乃が被告病院に入院中の昭和六〇年一月二一日夕刻、被告の雇用する看護婦が、喜代乃のベッドの側で、金属製の支柱に釣り下げられている点滴ビン(重さ約五〇〇グラム、ガラス製)を取り替える際、喜代乃の顔面約六〇センチメートルの高さから、右点滴ビンを喜代乃の顔面に落下させ、このため、喜代乃は、左眼周辺に皮下溢血斑、顔面挫傷の傷害を受けた。

(二)  およそ、医療従事者は、患者のベッドの側で点滴ビンの取り替え作業を行なうときは、内溶液の入った点滴ビンは相当の重さがあり、床上から約一八センチメートルの高さに取り付けるものであること、ガラス製のため、掌握不充分であればすべり落ち、ベッドで横たわっている患者の身体に落下することのあること、患者は病身ゆえ十分な回避措置のとれないこと、等の事実に照らせば、点滴ビンの掌握、釣り下げ作業を確実に行ない、落とさないようにすべき注意義務がある。

(三)  しかるに、被告の履行補助者である右看護婦は、この義務を怠り、点滴ビンの掌握不充分のまま漫然と取り替え作業を行ない、その結果、点滴ビンを落下させ、喜代乃に右傷害を負わせたものであるから、被告は債務不履行による損害賠償責任を免れない。

(四)  喜代乃の前記皮下溢血斑は、同年一月三〇日まで著明に存在したのであるから、加療九日間を要したことになり、その間の入院ないし通院相当の慰謝料は、金二〇万円を下らない。

6(相続)

原告は、喜代乃の唯一の相続人として、右慰謝料をすべて相続した。

よって、原告は、被告に対し、債務不履行あるいは不法行為による損害賠償請求権に基づき、金一〇〇〇万円(債務不履行については内金一〇〇〇万円)及びこれに対する本訴状送達日の翌日の昭和六〇年一二月一九日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1項の(一)は不知。同項の(二)は認める。但し、中川は現在、被告病院を退職している。

2  同2項の(一)は認める。但し、喜代乃は胃癌及び胆石症との診断により入院したものである。同項の(二)のうち、手術後投薬治療を受けていたことは認め、その余は否認する。同項の(三)のうち、喜代乃が中川に膝の痛みを訴えたこと、ブロック注射施行の二時間後、喜代乃が急に腰の脱力感及び腰部付近の激しい痛みを訴えたことは否認し、その余は認める。同項の(四)は否認する。喜代乃の死亡は、癌の全身転移によるものであり、喜代乃の一連の症状も癌の末期症状によるものである。

3  同3項の(一)ないし(三)は否認し、その余は争う。

4  同4項は否認する。

5  同5項の(一)及び(二)は認める。但し、当時点滴ビンは空で約三〇〇グラムの重さしかなかった。同項の(三)及び(四)は争う。

三  被告の主張

(一)  請求原因3項の(一)に対して

石川は、キシロカイン一五ミリリットルを圧痛点(四箇所)に、深さ一〜二センチメートル程度に注入したものであり、量、部位、深さのいずれについても、副作用を起こすような方法はとられていない。

喜代乃の死因は、癌の全身転移による悪液質であり、昭和五九年一二月二八日以降、喜代乃に生じた精神錯乱等の一連の症状も癌の末期症状によるものである。

(二)  請求原因3項の(二)及び(三)に対して

(1) 本件の診療経過は以下のとおりであり、被告の行なった診療行為はいずれも適切なものであり、何ら過失あるいは債務不履行はない。

① 喜代乃は、昭和五九年八月二〇日被告病院で初めて診察を受け、その際の検査の結果、胃癌及び胆石症との診断を受け、同年九月三日、入院し、同年同月一一日主治医である中川の執刀により、胃全摘術兼脾、膵尾部合併切除及び胆嚢摘除術を受けた。

② 右手術の結果、喜代乃の胃癌は噴門部から体部に及ぶS2P1N2H0ボールマン4型stageⅣの進行胃癌であり、リンパ節に転移し、膵臓断端、大網、肝円靱帯、横隔膜にも転移していることが判明した。

③ そして、中川は、喜代乃の胃癌は悪性のものであって、再発の危険性も充分あると判断し、その旨、原告らに説明すると共に、右手術結果に基づき、同年九月二〇日から抗癌剤(5FU、MMC、NCS)の静脈注射、点滴による治療にあたっていたが、同年一〇月二七日に白血球減少症が発生したため、MMC、NCSの使用を中止し、同年同月三〇日より骨髄機能賦活剤(セファランチン)を投与して経過観察を行ない、同年一二月二日からは家族の希望を入れて、丸山ワクチンの使用を開始した。

④ 同年一二月二五日ころから、喜代乃は右臀部から腰部にかけてのしびれ感、疼痛等の神経痛様の症状を訴え、中川は、同女には以前に座骨神経痛発作があったので同様の症状かと考え、温湿布・安静にて経過観察を行なっていたが、右症状が持続するため、同年同月二七日、中川がオムニカイン一〇シーシー、デキサシェロソン五ミリグラムにて圧痛点ブロック注射を施行したが、翌日になっても疼痛が持続するため、整形外科に廻し、診察することにした。

⑤ 同年同月二八日、整形外科の石川が診断したところ、胃癌の骨転移の疑いがあるということで、丸山ワクチンの投与を継続すると共に、腰椎骨のレントゲン撮影を行ない、キシロカイン一五ミリリットルにより局所の圧痛点ブロック注射を施行した。

⑥ 右ブロック注射により、喜代乃の痛みはしばらく軽減したが、同日夜になって再び疼痛を訴え、翌二九日になり、かかりつけのはり治療の先生に診てもらいたいとの希望を申し出たので外泊を許可し、喜代乃は翌三〇日午後四時帰院したが、疼痛は依然持続し、同日夜には不眠、不安を強く訴え、精神状態はやや興奮、錯乱気味となり食欲不振も強度となったため、鎮静、鎮痛剤(ホリゾン・ソセゴン)を多量に投与し、翌三一日には食事摂取不能のため、高カロリー輸液(IVH・一日一八〇〇カロリー)を施行し、翌年一月五日ころには下肢の疼痛も次第に軽減してきたが、このころから全身の関節痛、視力障害、発語障害が出現し、これについては鎮静・鎮痛剤の大量投与の影響もあるかもしれないと考え、次第に鎮静・鎮痛剤を減量した。

⑦ さらに、同月二五日、胸部レントゲン撮影により、両葉に肺転移と思われる陰影が出現したので、胃癌手術後の肺転移、脳転移、腰椎転移の疑いがありとして翌二六日CT撮影を行なったところ、明らかな腫癌は認められなかったので原告らに対し、肺転移、脳転移の疑いがあるが確定診断はついてない旨説明した。

⑧ その後、喜代乃は同月二七日に呼吸困難の状態となり、血圧も低下してきたので、直ちに気管内に挿管のうえレスピレーター(人工呼吸器)を使用し、さらに強心剤を投与して治療にあたったが、同月三〇日午前〇時四二分、死亡したものである。

(2) また、喜代乃の死因は癌の全身転移によるものであり、その死は不可避のものである。

(三)  請求原因5項について

看護婦が点滴ビンを落としたことにより、喜代乃の左眼周辺に生じた皮下溢血斑の程度は非常に僅少なものであり、右は、被告に慰謝料の支払義務を生じさせるに足りない。

第三  証拠<省略>

理由

一被告が日生病院を経営する財団法人であること、当時、中川及び石川が被告病院の被用者であったこと、喜代乃が、昭和五九年九月三日、被告病院との間で診療契約を締結して入院し、同年九月一一日、中川の執刀により、胃の全摘出手術を受けたこと、同年一二月二八日石川により、神経ブロック注射の施行を受けたこと、同年同月二九日以降、喜代乃が、視力が弱くなり、目の前が黒くなっていく、あるいは幻覚症状を訴え、精神錯乱状態を呈していたこと、その後、昭和六〇年一月三〇日、被告病院において死亡したことについては、当事者間に争いがない。

二(喜代乃の死因及び一連の症状の発生について)

喜代乃の死因及び錯乱状態の発生原因につき、原告は、石川の施行したリドカインを成分とするキシロカイン薬による神経ブロック注射による副作用たる神経系・循環器系の合併症によるものである旨主張するので、まず、この点につき判断する。

<証拠>によれば、喜代乃の死因は癌の全身転移による悪液質によるものであると考えられること、<証拠>を総合すれば、昭和五九年一二月三〇日以降の喜代乃の一連の症状発生当時、喜代乃の癌はすでに相当進行していたと思われること、リドカインを成分とするブロック注射の副作用としては、ショック症状が考えられるが、それは注射後二、三秒で現われるものであるところ、昭和五九年一二月二八日一二時の前記ブロック注射施行後、同日の二一時までは一応症状が安定していたこと、その前日に中川が同様のブロック注射を施行したところ、何ら異常は認められなかったこと、石川のブロック注射は、その部位、量、深さ等いずれも副作用を生じさせるようなものではないこと等の事実を認めることができ、これらを総合すると、喜代乃の不眠・不安・精神錯乱等の一連の症状はむしろ、癌の末期症状によるものであることが推認でき、前記ブロック注射の副作用による神経系、循環器系の合併症であることは、これを認めるに足りる証拠がない。

もっとも、<証拠>は、右ブロック注射の二時間後、急に喜代乃の腰が抜けた旨証言するが、<証拠>から認められる、喜代乃の痛みが同日の二一時ころまで軽減していた事実に照らすと、右証言を信用することができない。

三そうすると、原告の請求原因3項の(一)を理由とする請求は理由がない。

四(請求原因3項の(二)、(三)の被告の責任等について)

1  原告は、請求原因3項の(二)、(三)のとおり、被告は、診療契約に基づく債務不履行責任ないし民法七一五条に基づく不法行為責任を負う旨主張するので、右主張について検討する。

(一)  被告病院の診療経過について

<証拠>に前記一の争いのない事実及び前記二に認定した事実を総合すると、喜代乃の死亡にいたる経過につき以下の事実を認めることができ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(1) 喜代乃は、昭和五九年八月二〇日、初めて、被告病院を外来受診し、胃癌ないし胃悪性リンパ腫の疑いということで、同年九月三日被告病院に入院することになり、同日、中川が初めて喜代乃を診察した。そして、右同日の胃カメラ及び内視鏡検査により、喜代乃は、広範囲にわたる悪性度の強い低分化腺癌であることが判明し、胃の全摘出手術を施行することに決定し、その旨家族にも説明された。

(2) 同年同月一一日、中川の執刀により、胃全摘出手術兼脾、膵尾部合併切除及び胆嚢摘除術を施行することになり、開腹したところ、喜代乃の胃癌は胃の噴門部(入口)から体部(中央部分)に及び、胃の表面上からみて癌があることがわかるほど進行しており(S2)、胃の近くの腹膜の各所に癌の転移と思われる白い結節状の固まりが出ており(P1)、胃から少し離れた所のリンパ腺まで肉眼的に癌の転移と思われる腫れがあり(N2)、総合すると「胃癌取り扱い規約」(日本病理学会、外科学会)のstageⅠからⅣまでの分類によるとstageⅣ、即ち右分類中では最も進行した状態の癌であり、膵臓断端、大網、肝円靱帯、横隔膜にも転移していることがわかり、本件手術では相対的治癒切除にとどまり、再発の危険性が十分あるということで、手術が終わり、腹部を閉める前に抗癌剤を腹腔内に散布した。

(3) 右手術後、中川は、喜代乃の癌はリンパ腺にも転移しているかなり悪性度の強いもので、再発の恐れも十分あることを原告らに説明し、癌の再発を念頭において、胃全摘出後の食道と空腸の吻合部がしっかりくっついたと思われる同年九月一九日から、NCS、5FU、同年同月二〇日からはMMCの各抗癌剤の点滴による全身投与を開始した。

その後、右抗癌剤の投与により副作用である白血球減少症が発生したため、同年一〇月二九日で、MMC、NCSの投与を中止し、骨髄機能賦活剤(セファランチン)の投与を開始するとともに、喜代乃の家族の依頼により、同年一一月六日からは丸山ワクチン(SSM)の投与を開始した。

(4) 手術後、喜代乃は、吻合部からの漏れもなく経口摂取できるようになり、症状も安定して、同年一〇月末ころからはときどき外出も許可されるようになり、同年一二月二八日には退院の予定になっていた。

ところが、右退院を前に、同年一二月二五日ころになって、喜代乃は、臀部から大腿にかけての痛みを訴え、かかりつけのはり治療を受けたいと言い出したので、中川も、同女の以前からの挫骨神経痛の延長であろうと考え、翌二六日外出許可し、はり治療を受けさせたが、帰院しても依然痛みが持続し、翌二七日、中川がプロカイン(薬品名オムニカイン)、リンデロン(薬品名デキサシェロソン)を成分とする局所麻酔剤のブロック注射を施行したが、やはり痛みがとれないため、整形外科に回し、石川の診察を受けさせることにした。

(5) 翌二八日、石川が診察したところ、喜代乃は安静時においても痛みを訴え、癌の腰部転移の疑いがあるが取り敢えず局所のブロックを続けるしかないということで、同日一二時ころ、石川が、リドカインを成分とする一パーセントキシロカイン一五シーシーによる圧痛点ブロック注射を第三腰椎レベルの中央から三センチメートル程外側の両側及び腸骨稜の中央から一五センチメートル程度外側の両側の皮下一ないし二センチメートルに施行した。

(6) 右注射により、一時痛みは軽減したものの、その後同日二一時ころから再び喜代乃は腰部、下肢痛を訴え、はり治療を受けるため翌二九日、一旦許可外泊したが、翌三〇日明け方急に痛みが激しくなって帰院し、その後、腰部・下肢痛に加え、不眠、不安、視力障害等を訴え、興奮気味の状態が続いた。

このため、中川は、石川から癌の腰部転移の疑いありとの報告を受けて、年明けに予定していた骨シンチ、ガリウムシンチの各検査をとり止め、取り敢えず痛みを抑えるということで同月三〇日以降、鎮痛剤であるソセゴン、鎮静剤であるホリゾンを投与し、さらに、口径摂取不能のため、同月三一日からは高カロリー輸液(IVH)を施行した。

(7) その後、喜代乃は、昭和六〇年一月一二日、同月二五日にレントゲンをとり、翌二六日にCT検査、二九日に神経科の診断を仰ぐも、癌との確定的な診断をえられないまま、同月三〇日〇時四二分、被告病院において死亡した。

(二)  癌転移発見とその措置

前記(一)で認定したとおり、中川は昭和五九年九月一一日の胃の全摘出手術の時点から、胃癌の再発の危険性を十分認識し、常にそれを念頭において、手術時の腹腔内への抗癌剤の散布に始まり、5FU、MMC、NCSあるいは丸山ワクチン等の抗癌剤の投与を続けており、石川の診断を受けた同年一二月二八日からは、すでに癌の腰部転移を疑っており、また、<証拠>によれば、胃癌の転移の疑いが生じた後、喜代乃の症状が悪化したため、右転移を確定的に診断するための検査は行なわず、昭和六〇年一月五日に丸山ワクチンの投与を中止してからは、特に癌に対する治療はせず、専ら喜代乃の痛みを除去するための治療に終始していたことが認められるが、同時に、<証拠>によれば、本件のような胃癌が再発した場合これを治せる治療はなく、また、癌の転移を確定的に診断するための検査は患者にとって非常に負担であり、仮に、確定的に癌であると診断をつけても、その治療法としてはより強力な抗癌剤の使用くらいのものであるが、それはまた副作用も非常に強く、喜代乃のように非常に全身状態の弱っている患者には適さないため、同人に対しては痛みを和らげる補助的治療をなし得るにどとまり、結局、癌の転移と確定診断がついた場合と疑いにとどまる場合で治療内容に差異はないことが認められ、これらの事実に照らしてみると、むしろ、中川は、喜代乃の癌転移を予想あるいは疑って、これについての治療を行い、右治療はあながち不適切なものであるとは言えないものである。

(三)  救命の可能性について

<証拠>によれば、癌の再発の場合、次から次へと再発部分を切除して延命効果の出る場合もあるが、本件の場合、腹腔内での胃癌の再発でありそのような方法はとれず、最初の手術で肉眼で見える範囲の部分を中心になるべく広い範囲で切除するが、本件の喜代乃の胃癌はstageⅣ型の進行癌で再発の危険性が非常に高く、再発した場合は、最初の手術のメスで癌を刺激して、血液あるいはリンパに乗って転移を起こす癌が加速度を早めることになり、そうなれば、当時の医療水準ではもはや手の施しようがなく、救命は不可能であったと言わざるをえず、したがって、昭和五九年一〇月中旬ころの喜代乃の救命可能性についてはこれを認めることはできない。

(四)  延命の可能性

<証拠>によれば、stageⅣ型胃癌の患者については、一〇人中、手術後一年以上生きられるのは一人あるかないかであり、ほとんどは一年以内に再発・進行・死亡という経過をたどるということであり、その一人についても、五年以降生存率というのは非常に少ないことが認められ、喜代乃が、手術日(昭和五九年九月一一日)から死亡日(昭和六〇年一月三〇日)まで、約四か月半生存したことを考えると、喜代乃に対する医療行為によりその死亡を遅らせる可能性も一応考えられないではないとしても、その可能性の程度及び期間については必ずしも断定しがたく、結局、延命の可能性についてはこれを認めるに足りない。

2  以上の次第であるから、原告の請求の原因3項の(二)、(三)を理由とする請求は理由がない。

五点滴ビンの落下による損害について

1  昭和六〇年一月二一日夕刻、被告の雇用する看護婦が、点滴ビンを取り替える際、誤って右点滴ビンを喜代乃の顔面約六〇センチメートルの高さから落下させ、その結果、喜代乃の左眼周辺に皮下溢血斑、顔面挫傷の障害を負わせたことについては、当事者間に争いがない。

2  ところで、<証拠>によれば、右落下により、喜代乃の左眼周辺が赤黒く内出血したことが認められる。

しかし、<証拠>によれば、被告病院の入院記録には、翌日より内出血著明とのみ記載があることが認められ、これのみによっては、右が喜代乃の死亡まで著明に存在したとか、死亡までの九日間の加療を要するほどの傷害であったとか、これにより喜代乃に精神的苦痛を与えるほどの傷害が生じたとかについては推認し難く、これらを認めるに足りる証拠もない。

そうすると、前記1の落下により、喜代乃に慰謝料を支払うべき程の精神的苦痛が生じたものと認めることは困難である。

3  してみれば、原告の請求原因5項を理由とする請求は理由がない。

六よって、原告の本訴各請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山﨑末記 裁判官荒井純哉 裁判官脇由紀)

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